四の章  
北颪 きたおろし (お侍 extra)
 



    閑話休題  柑子の実 付け足り





  治療まで待たず、先に戻ると言い出した久蔵だと、
  電信にて知らせがあったと言うておったが。
  その折、七郎次から何を訊いたか、

   ―― 何をどれほど知っているものなやら。




虹雅渓から神無村まで戻るその帰途にて。
荒野の半ば、旅程の半分の位置にて遭遇出来た勘兵衛は、だが、
初めての不安と、それへのささやかな混乱とで、
慣れぬこととて憔悴しかかっていた久蔵へ、
なのに、ただただ“休め”としか言わなんだ。
自分もまだ何かと勝手が不自由な身で、
大変だったことだろと。
宥めるような構いつけしか、してくれなくて。

  肩を抱く腕は、確かに暖かではあったけれど…。

村へと辿り着いてもまだ、
出迎えた五郎兵衛や村の者らへ、
七郎次から託された物資や荷を任せると、
さぁさ家まで帰ろうと、ゆっくりせよとしか言わなくて。
目を離すと言う通りにしないのではないかとでも言わんばかり、
早くなった宵の中、住処までを戻ったものの。

  風の音さえしない、そこはただただ静かなところで。

あまりに静かで、居たたまれなくて。
自分の中、何かが頭をもたげてくるのが、不安で辛くて。
考えたくはないけれど、でも。
他に何かがないなら、想いはそこへと帰着するから。

  今の自分には一番の重要事
  今の自分には一番に重い懸念

だからこそ、目を逸らしても耳を塞いでも、
思考の視野の中へとヒラリ現れ、
それを思うと足元から冷たさが這い上って来る。
振り払うにはあまりにも、ここは静かで何にもなくて。

 「…。」

寄るな来るなと気鬱を振り払うのに気を取られ、
呆と突っ立っていたら、その肩に誰かが触れた。
旅程の間、ずっと羽織っていた砂防服を、
脱がせてくれようとする手だった。
大きくて、頑丈そうで。
節々がごつりと立ってて武骨で、でも、頼もしい。
襟を開いたそのときに、頬をかすめた暖かさが、

  何とも言えず、懐かしくって。

この手を知っている。
六つの花弁のある花を刻んだ、大きな手。
ご大層な外套を、肩から引きはがそうとする所作の中、
それが首条に触れたのが、熱くて…暖かだったから。
顔を上げれば、向かい合う存在があって。
その懐ろが何とも頼もしく見え、
深色の眸が何とも言えず真摯だったから。

  その手の持ち主に…その懐ろに、
  倒れ込むよにすがりつく。

そんな時ではなかろうと、
やはり、宥めるように引きはがされるのだろうかと。
そんな切ないことをちらと思ったそれと同時、

  こちらの二の腕へと触れて来た手は、だが、
  そのまま背中まで回されて。

その手が頭を撫でたのは
顔を上げよという示唆かと思ったが。
かすかに上がった顎を捕らえた堅い指先は、
おとがいを撫でるとそのまま手を開いての頬に臥せられ。
それから…それから。

  乾いた感触が、唇へと降って来て。

充実した筋骨に鎧われた、強くて堅い腕は
逃がさぬと言わんばかりに、きつくきつく抱きしめてきて。
つい先程までの穏やかな静かさはどこへやら。
あまりの豹変ぶりには、
さすがにギョッともしたけれど、

  何も、考えたくはなかった、から。

ああ、やはり意外なほど柔らかいものだ。
少し乾いて、でも熱くて。
こちらの顎先に触れる、髭の剛い感触がくすぐったくて。

  今の今、拾えることだけを感じていようと吹っ切った。

切迫した口づけに溺れそうになりながら、
凭れかかるように重みを預ければ、
その手の力だけでかと思わせるほど軽々と、
大きな手が余裕でこちらの腰やら尻やら抱え上げ、
框を踏みしめ、板の間へと上がってゆき、
その奥の間へまでを衒うことなく進んでく。

  何処へなりと連れてゆけと思った。

その熱でこの頼りない総身を鎔ろかして、
何も思うことが出来ないよう、
想いのまま凌駕して、翻弄してくれればいいからと。
逃げるように、ただただすがった。


  人を、誰ぞかを頼っただなんて。
  そんなこと、
  久蔵には生まれて初めてのことだった………。






  〜Fine〜


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